読者からの質問:
最近、フジテレビの「Mr.サンデー」を見ていて、元アナウンサーの長野智子さんが「アナウンサーたちはイエス・ノーをきちんと言える人たちだ」と言っていたのを聞いて、ちょっと気になりました。彼女の言葉は、真面目にやっている人が多いという意図があると思いますが、逆に「言えなかった人はちゃんとしていない」と受け取られかねないなと感じました。
また、ひろゆきさんも「嫌な誘いは断るのが当然」といった投稿をしていて、これも話題になっています。どちらの意見も理想の社会像を語っているのかもしれませんが、現実はそんなに単純ではないと思います。特に芸能界やメディアのような力関係が明確な世界では、大御所からの誘いを断るのは難しいことがあると思います。行かなかったら次に呼ばれなくなるかもしれないという不安は、自然な感情ですよね。
こうした「断れない状況」をなくす努力が大切なのに、今は「個人の対応力」の話ばかりになっている気がします。長年その状況を見て見ぬふりをしてきた先輩たちや業界全体の責任はどうなるのでしょうか。「断れた人」がいたなら、なぜ声を上げなかったのかとも思います。
最後に、Xで見かけた意見がとても共感できました。「イエス・ノーをきちんと言えるということは、そういう状況を放置して、各自の断るスキルに任せていたということでもある」と。特に、警鐘を鳴らさなかったOBたちも問題だと思います。この意見に賛成です。今こそ、表面的な言葉よりも、構造そのものを見直すべきではないでしょうか。皆さんはどう思いますか?
「イエス・ノー」を言える社会の裏側
最近、テレビで長野智子さんが「アナウンサーたちはイエス・ノーをきちんと言える人たちだ」と語っているのを見た。彼女の言葉には、一見すると真面目に取り組む人たちを称賛する意図があるように感じたが、よく考えてみると、逆に「言えなかった人はちゃんとしていない」と受け取られてしまう危険性があることに気づいた。
ひろゆきさんの意見も同様だ。彼は「嫌な誘いは断るのが当然」と言っているが、これは理想の社会像を描いているように聞こえる。しかし、現実はそう単純ではない。特に芸能界やメディアの世界では、力関係が明確で、大御所からの誘いを断るのは容易ではない。断らなければ次に呼ばれなくなる不安が、そこに存在するのは自然な感情だと思う。
断れない状況の責任
「断れない状況」をなくす努力が大切だが、今は「個人の対応力」の話ばかりになっているように感じる。長年その状況を見て見ぬふりをしてきた先輩たちや、業界全体の責任はどうなるのだろうか。「断れた人」がいたなら、なぜ声を上げなかったのかと考えてしまう。
Xで見かけた意見に共感する。「イエス・ノーをきちんと言えるということは、そういう状況を放置して、各自の断るスキルに任せていたということでもある」という指摘は、非常に鋭いと思う。特に警鐘を鳴らさなかったOBたちも問題だ。今こそ、表面的な言葉よりも、構造そのものを見直すべきではないか。
自分の経験から
私自身も、大学のサークルやアルバイトで「断ること」の難しさを痛感している。例えば、司法書士の事務所でのアルバイトでは、先輩からの頼みごとを断れずに、無理をしてしまったこともあった。もちろん、その状況を理解してくれる先輩もいるが、中には「それぐらいやって当然だろう」と思う人もいる。そんな時、どうしても自分の意見を言えずにいた自分が情けなく感じた。
そんな経験を通じて、やはり「断るスキル」というのは重要だと思う反面、それが全てではないとも感じる。業界の体質や構造を改善しない限り、個人の努力だけでは解決できない問題も多いのだ。
皆さんの意見を聞かせて
このような問題について、皆さんはどう感じているだろうか?自分の経験や考えをコメントで教えてもらえたら嬉しい。もしかしたら、私たちの意見が少しでも社会を変える力になるかもしれない。これからも、一緒に考えていこう。