読者からの質問:
どうして「同意があったかどうか」を加害者の言い分だけで判断しようとする人が多いのでしょうか?中居正広の件について、「女性も最初は同意していたのでは?」や「後から気が変わっただけでは?」という意見を見かけますが、それは加害者の視点からの考え方に過ぎないと思います。相手の気持ちよりも、自分が「嫌がっていないように見えたから大丈夫だ」と考えるのはおかしいですよね。
いじめっ子が「いじめていない」と言ったら、「そうなんだ」と受け入れるのでしょうか?パワハラ上司が「指導だっただけ」と言ったら、納得するのでしょうか?そんなことはないと思います。それなのに、なぜこの件では加害者の「つもり」を優先するのか理解できません。
実際、第三者委員会は「認識の差」が問題だと指摘しており、WHOの定義を引用して「これは同意とは言えない」と結論づけています。「嫌がっていなかった」ということではなく、「自由意志であったかどうか」が重要なのです。上司や有名人など、力の差がある場合には言えないこともあるでしょう。
さらに、中居さん自身も「何もなかった」とは言っていません。「誤解だ」とか「そういう意味ではない」と言っているだけです。だったら、最初から「誤解があったなら謝ります」と言えばよかったのに、結局示談していて、事実の核心部分は否定していないのです。
つまり、こうした問題では「同意したかどうか」が争点ではなく、「それが自由な同意だったのか」が重要です。それを理解していない人が多すぎるのではないでしょうか。なぜ「やられた側の認識」が軽視されるのか、本当に不思議です。みんな本気で「加害者がそう言っているなら無罪」と思っているのでしょうか?
同意の重要性とその認識の差について
最近、中居正広の件についての議論を見ていて、ふと思ったことがあります。どうしてこうも「同意があったかどうか」を加害者側の視点からだけで判断しようとする人が多いのか、ということです。正直、驚くほど多くの人が「女性も最初は同意していたのでは?」とか「後から気が変わっただけでは?」という意見を持っているのを見て、ちょっと心配になりました。
私たちの日常でも、いじめやパワハラの話が出ると、加害者が「そんなことはしていない」と言ったら、普通はその言葉を鵜呑みにしませんよね。それなのに、なぜかこの件になると、加害者の「つもり」や「意図」を優先してしまう人が多いのか、理解に苦しみます。
自由な同意とは何か
特に気になるのは、「自由意志であったかどうか」が問題であると、第三者委員会が指摘しているという点です。確かに、力の差がある場合や、周囲からの圧力がある場合、相手が本当に自由に同意できているのかどうかは非常に難しい問題です。私自身も、友人と飲みに行くときなど、気を使いすぎて「ノー」と言えない状況になったことがあるので、その気持ちがよくわかります。
また、中居さん自身も「何もなかった」とは言っていないという点も気になります。「誤解だ」とか「そういう意味ではない」と言っているだけで、核心部分を否定していないのは、もどかしいですね。だからこそ、同意の有無だけでなく、その同意が本当に自由なものだったのかを考えるべきだと思います。
社会の意識の変化
最近、私も子供を持つ親として、こうした問題がどう変わっていくのか考えさせられることが多いです。子供には、他人の気持ちを考えることや、自分の意見をしっかり持つことの大切さを教えたいと思っていますが、社会全体がこの問題をどう捉えているかが、彼らの価値観にも影響を与えると思うんですよね。
特に、近年のMe Too運動などで、性に関する意識は確実に変わってきています。昔は「女性が男の部屋に行くことが同意とされていた」といった考え方も、今では見直されつつありますよね。そういう意味では、時代は変わってきていると感じます。
この問題について、みんなが自分の意見を持っているのは素晴らしいことだと思いますが、もっと「やられた側の認識」を理解することが大切ではないでしょうか。あなたはどう思いますか?この件についてのご意見や経験があれば、ぜひコメントで教えてくださいね。

