読者からの質問:
1945年8月9日にソ連軍が満州に突入した際、日本人は居住地を捨てて逃げたと聞きました。その時、少しの食糧を持っていたとしても、せいぜい数日分だったのではないかと思います。翌年の1946年4月25日にようやく佐世保から日本人引揚船第一号が中国に向かいましたが、中国にいた日本人は8ヶ月間も日本政府から見放されていたそうです。その間、彼らはどのように食糧を確保していたのか不思議です。冬を越すためには住む家も必要ですし、野宿は難しいと思います。
人間は3週間ほど食べないと亡くなると聞きますが、国連が中国大陸の日本人難民に食糧を配給したのは終戦からかなり後のことだと思います。その間、日本の難民たちは何を食べて生活していたのでしょうか。満州にいた日本人170万人が一日おにぎりを1個食べたとしても、毎日170万個のおにぎりが必要です。すべてが国連からの調達で賄えるとは思えません。彼らはどうやって食糧を調達していたのか、知っている方がいれば教えていただけませんか。ちなみに当時、日本国内でも一人当たりの食糧は500kcalにも満たず、80%の国民が空腹に苦しんでいたため、日本本土からの援助はなかったと思います。
引揚者たちの食糧事情
こんにちは!今日はちょっとタイムスリップして、1945年の満州にいた日本人たちの厳しい生活について考えてみたいと思います。戦争が終わって、ソ連軍が満州に突入した時、日本人たちは一斉に居住地を捨てて逃げ出しましたよね。想像するだけで心が痛みます。特に、食糧が不足していた日本の本土からも援助がない中、彼らがどうやって生き延びたのか、なんとも不思議で、興味深いですよね。
逃げる時の食糧事情
まず、彼らが持っていた食糧はほんの少しだったという話を聞きます。数日分の食糧を持って逃げたとしても、170万人もの人々が生き延びるには到底足りないですよね。私たちの普段の生活でも、ちょっとした買い物を忘れると不安になるのに、彼らは食糧を確保するために必死だったことでしょう。ある引揚者の方が、「食べ物がないときは、近くの川や山に行って、野草やキノコを探した」と語っていたのを思い出します。その時、彼が「でも、当たり外れがあったから、食べたらお腹を壊すこともあったよ!」と笑いながら話してくれたのが印象的でした。
助け合いの精神
また、周囲の人々との助け合いもあったそうです。食糧が不足している中、近所の人たちと分け合ったり、少しでも手に入れたものを交換したりしていたようです。ある引揚者の女性が、「私たちが集まって、少しずつ持ち寄った食材で、みんなでご飯を炊いて食べたことがあった」と教えてくれたことがありました。そういう絆があったからこそ、困難な時期を乗り越えられたのかもしれません。私も友人たちと一緒に料理をすることがありますが、その時の笑い声や会話が何よりの栄養になる気がします。
国連の支援までの道のり
国連の食糧配給が始まるまでの8ヶ月間、彼らは本当に大変だったと思います。想像するに、食料を探すために日々奔走し、時には危険を冒してでも食べ物を求めていたのかもしれません。そんな中でも、人々は希望を持ち続け、互いに支え合っていたのでしょうね。
私も最近、食糧難のニュースを見て、何かできることはないかと考えさせられました。やっぱり、困っている人を助ける気持ちが大事だなと改めて思います。
あなたの経験を教えて!
さて、皆さんはどう思いますか?過去の苦労を乗り越えた人たちの話を聞くと、私たちの生活も見直すきっかけになりますよね。もし、あなたの家族や友人の中に、こんな風に困難を乗り越えたエピソードがあれば、ぜひ教えてください!それに、あなた自身の面白い食糧確保術や、思わぬ発見などもあれば、ぜひコメントでシェアしてくださいね。お待ちしています!