読者からの質問:
最近、SNSで最上あいさんを殺害した高野健一容疑者を称賛する投稿を見かけることが多いです。「よくやった」とか「自業自得」と言っている人たちがいるけれど、本当にそう思っているのか疑問です。
殺人はどんな理由があっても許されない犯罪です。それを「仕方ない」とか「気持ちはわかる」と言うのは、次の犯罪を生む原因になるのではないでしょうか。ネットの誹謗中傷が原因で命を絶った人もいるし、過激な言葉が犯罪を引き起こしたこともあります。自分の発言が誰かに影響を与える可能性を考えたことはありますか?
4月から施行される「情報流通プラットフォーム対処法」により、誹謗中傷や犯罪を助長する投稿は削除され、投稿者も法的責任を問われる可能性があります。もはや「ネットだから何を言ってもいい」という時代ではありません。
「正義面するな」とか「偽善者」と言う人もいますが、殺人を称賛することがどれだけ危険で、自分自身を追い詰める行為かを理解してほしいです。また、「考え方は人それぞれ」と言って見て見ぬふりをするのも同じです。もし殺人を肯定する発言が許されるなら、「犯罪を犯すかどうかも人それぞれ」となってしまいます。そんな社会になったら、自分や大切な人が被害に遭っても文句は言えませんよね。結局、誰かが「これはダメだ」と言わなければならないし、黙っていることも加担しているのと同じです。
もし「自分は間違っていない」と思うなら、法律的にも倫理的にも納得できる理由を示してほしいです。でも、そんな理由は見つからないのではないでしょうか。皆さんはどう思いますか?
最近のSNS事情について思うこと
最近、SNSでの投稿を見ていると、衝撃的な事件についての意見が飛び交っているのをよく目にする。特に最上あいさんの事件に関する高野健一容疑者を称賛する声が、まるで自分の意見を正当化するかのように見えることに、少し驚いている。殺人を称賛することがどれだけ危険なことなのか、考えたことがあるだろうか。
倫理と法の狭間
「法的には許されない」という枕詞をつけている人も多いが、それが本当に心の底からの理解に基づいているのか疑問だ。私は法律を学んでいる身として、このような発言がどれだけ危険かを感じる。殺人はどんな理由があっても許されるべきではない。それを「自業自得」と片付けるのは、まるで暴力を助長するようなものだ。
ある日、友人とカフェでおしゃべりをしていると、映画の話になった。サスペンス映画の中で、主人公が悪役を倒すシーンを見て「スカッとする」という意見が出た。私もそれに共感しながらも、「でも、現実の世界では殺人は許されないよね」と話を戻した。友人も納得していたが、その時の表情はどこか考え込むようだった。映画の中の暴力と、現実の暴力はまったく異なるものなのだ。
ネットの影響力を考える
ネット上での言葉は、時として思いもよらない影響を与える。誹謗中傷が原因で命を絶った人もいるという現実を考えると、軽い気持ちでの発言がどれだけ重大な結果を招くか、理解できるだろう。最近施行された「情報流通プラットフォーム対処法」の影響で、誹謗中傷や犯罪を助長する投稿が削除される可能性がある。つまり、以前のように「ネットだから何を言ってもいい」という時代は終わりつつある。
「考え方は人それぞれ」と言うが、それが殺人を肯定する理由にはならない。もしそのような意見が許されるなら、社会はどのような方向に進むのか、想像するだけで恐ろしい。
みんなで考えるべきこと
結局、誰かが「これはダメだ」と言わなければ、社会は壊れてしまう。黙っていることも、間接的に加担しているのと同じだと感じる。自分の意見を持つことは大切だが、その意見が他者にどんな影響を与えるのか、考える責任がある。
もし、「自分は間違っていない」と思うなら、納得できる理由を示してほしい。私自身、法的にも倫理的にも反論が難しいと感じているから、皆さんの意見を聞いてみたい。どんな考えを持っているのか、ぜひコメントで教えてほしい。
さて、今回のテーマについては、色々と考えさせられることが多かった。私も、日常の中で何気なく発した言葉が、誰かに影響を与える可能性があることを忘れないようにしたい。あなたの意見や体験も、ぜひ聞かせてほしい。