夫がリビングでギターを弾く音が聞こえる。彼の声が、酔いにまかせて過去を振り返っている。何度も聞いたことのあるメロディが、胸を締めつける。失恋ソング。その歌詞は、彼の心の奥底で冷えてしまった感情に触れる
魔法のようだ。未練に満ちた旋律は、ただの音楽ではない。彼が過去に抱いたものの全てを、まるで一つの物語として紡いでいるように感じられる。
赤ちゃんの寝息をそばに感じながら、私はその姿を見つめる。彼の指先が弦をなぞり、心の琴線に触れる音が響く。愛情深い父の顔の裏に、過去の影がちらりと覗く。この瞬間だけは、彼が元カノのことを思い出しているように思えてならない。いつも「未練はない」と言っているその口から出た言葉の裏に、何が隠されているのか。彼の真意を知りたくて、何度も問いかけたけれど、「そんなことはない」と返ってくるばかり。彼の目に映る私の顔が、どうしても自信を持てない。
酔った彼は、蓋を閉じた想いを思わず開けてしまう。別れた彼女の笑顔が、今でも彼の心の中で揺れ動いているような気がしてならない。指をすり抜けるギターの弦は、彼の心のささくれを引っ掻いている。私の中の不安が大きくなる。愛しているはずなのに、彼の心の一部が他の誰かに引きずられているかもしれないという恐れ。
日常の中で忙しく過ぎて行く時間の中で、私は赤ちゃんを抱きしめて、彼を信じようと決めた。それでも、心のどこかでわだかまりが残る。愛し合うことは、時に不安を引き寄せるものなのだ。
数日後、彼がソファで寝入っていると、私は彼の手の中に小さなメモを見つけた。くしゃくしゃになった紙には、幼い頃の彼女の名前と一緒に、彼が思い描く未来の夢が記されていた。そこには、赤ちゃんの笑顔や、彼の夢が溢れている。過去への未練が、彼の心を重くしているのではなく、彼はただ過去と今を繋ぐ架け橋を求めていただけだった。
彼が本当に大切にしているのは、今この瞬間の幸せなのだ。失恋の歌は、彼の煙のような思い出。愛情の深い海で溺れかけているわけではない。私は彼の心の中で、今も変わらぬ思いを感じた。彼の歌は過去を思い出すものだけれど、私たちの家族を愛するための武器でもあるのだと。そう、彼は私を選んでくれたのだ。私たちは、これからの未来を共に歩む。